2011-12-12

ナミビア、アフリカへのある愛の形。~物事変わるに50年?~

青年海外協力隊の一員として、アフリカの”優等生”国で活動してそろそろ1年。
1年経つと活動の成果等を報告する「第三号報告書」を書くことになっております。

それを書いている途中、もやもやしていたものが形になったような気がしました。
報告書には書ききれないのでこちらに書いているわけです。

あくまで私個人の分析であってJICA並びにその他関係機関・関係者の意見ではありませんので悪しからず。これをお前が言うか?!立場考えろ!なんてお叱りも覚悟。
勝手を承知で物事を客観的に俯瞰して見た結果です。


先ずは雑感から。

<産業とビジネス>

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100207 の記事がヒントになりました。

歴史を紐解くと、アフリカ諸国が独立の春を迎えたのは1960年代で日本ではちょうど高度経済成長の真っただ中でした。
独立を勝ち取ったアフリカ諸国への政治的・経済的・人道的な観点から世界各国による援助が始まったという認識でおります。
その援助を継続すること約50年程、つまり半世紀の歴史があるわけです。これだけ続けば、被援助国側でこの援助自体を”産業”として見る人も出てくるでしょう。
一方、援助側はこれを「ビジネス」として見る人がでてきてもおかしくないわけです。

援助する側として糊口を凌ぐことができるのであればできるだけその仕事を継続し、あわよくば広げたいわけです。(お前も同じ穴の貉だろ?と言われれば、否定はできません。ボランティアとはいえ、国際協力組織の一員ですから。)
ここに予算獲得を目的とした「仕事のための仕事」がつくられることになります。
所謂官僚的世界ができあがります。予算獲得至上主義、とでも命名しましょうか。

受け手としては産業として、送り手としてはビジネス(口に糊する手段)として、ある意味WIN-WINの関係が出来上がった、というなるべくしてなったとしか言いようのない構造が指摘できるのです。

日本が、とはいってませんよ。
日本はどちらかと言えば「自国の直接的な金銭的・資源的利益を脇に置いておいて、支援する」ことに重きを置いている世界から見たら稀有で貴重な(奇特な)存在だと思います。かといって上のことがない、とは言えませんが。

というのも、全ての世界・業界にWIN-WINの構造があるからこそ、それらがこの世に存在しているのですから。


<資源国と非資源国への分配の不平等>

例えばソマリア。豊富な資源をもっていません。ソマリアはず~~と内戦が続いています。
戦っている当事者も、「自分以外は全部敵」の認識で四方八方それぞれの組織と戦っているようです。泥沼です。また、ソマリアは海賊で有名です。討伐の対象になり、各国が軍隊等を派遣しておりますがソマリア国内にどうこう、というのはニュースを見る限り見えてきません。
これに対し国際社会はニュースになるような目立った行動を取っておりません。
唯一ケニアが、観光などでケニアを訪れている外国人に対する誘拐事件多発(当然、越境して誘拐しております=国境侵犯)にキレてソマリア武装グループを攻撃しているくらいでしょうか。なんで根本的解決を目指さないのだろうと不思議に思います。
過去には、ルワンダでのジェノサイドもこちらの部類に入ると思います。

一方産油国であるリビアでは、反欧米諸国の旗手だった故カダフィ大佐がデモをする市民を鎮圧しようと動くや否や先進諸国が中心となり軍隊を派遣しあれよあれよという間にカダフィ政権を倒してしまいました。
カダフィ氏を擁護するわけではありませんが(デモを鎮圧する動きを見せた時点で政権を握るものとして不適格者となったというのが私の考えです。)彼はもう一つの顔を持っています。それは「アフリカの雄」です。AUの結成に多大な貢献をしています。
任地では彼の死を悲しんでいる人もいるくらいの英雄なのです。ちなみに、同僚等にこの事件の感想を聞いてみると「ああ、また西欧諸国が自分たちに不都合な存在を力で消しちゃったよ」的な意見が圧倒的多数でした。

資源を持つ国と、持たない国の間の分配の不平等が半端ないのが国際政治の特徴なのでしょうか。メリット(資源)が得られないのに自国の国民を犠牲にしてまで、何かするという政治もたまったものではありませんがね。
ただ、釈然としないだけです。

<実感していること>

アフリカが50年間援助を受け続けているにもかかわらず、何故躍進的な発展ができないのか。独立して20数年とまだ若い国であるナミビアの小さな地方都市に1年間住んでみた率直な分析的感想。会った人たち全員が全員100%、以下のことに当てはまるとは思わないでください。お会いした人たちの中でも僅かではありますが敬服してしまうほどの哲学・考え方・人生観を持っていらっしゃる方もいます。
そんな方々を”ナミビアの良心と希望の人たち”と私は密かに呼んでいます。

の1 自分を実力があると信じ込み、幼稚な嫉妬心から他に失敗の原因をみつけようとする心構え:「自分たちがうまくいかないのは〇〇のせい」=あいつらさえいなければ!!

先ずは、中国人の台頭。
首都などの建設現場をみると必ずと言っていいほど中国資本の企業+中国人作業員。
小さな地方都市でも”チャイナショップ”があり、安くて粗悪な中国製品を販売。
彼らにとってアジア人=中国人なのです。

政府は武器提供を通して独立を手助けした中国は”古い友達”であるという認識です。
でも市井の人はその逆。
私が町を歩けば当初ほどではありませんがまだ「中国人!」と罵倒されます。
「コックローチキラー(=ゴキブリ殺し):現地の人が自分たちをゴキブリと呼び、それを[経済的に]殺しているのが中国人」なんてことも言われます。

「中国人は我々のビジネスチャンスを潰している。奴らがいなければ俺たちは成功している」という認識のようなのです。

でも、そう言う彼らに「仕入先はどこにして何を売るの?」「経費はどのくらいを見積もっているの?」「利益率いくらに設定して売るの?」「お店の場所はどうするの?」と具体的な質問をしても答えられません。「俺は奴らがいなければ成功している(た)」と自信満々です。
でも、中国人を毛嫌いしながら、中国製品に囲まれた生活をしているんですけどね。

昔から支配者層として君臨していた白人の子孫に対しては、「独立したのに、その子孫は今だにこの国に居座りこれまでの地位を利用して搾取している。やつらさえいなければ!(俺はあいつの代わりに贅沢できるのに)」
ちなみに白色系人種の人も中国人を毛嫌いしているようです。
「日本人は中国人に似ているからうちの施設は利用するな。」とホテルの主人に言われたこともあります。なんでかっていうと、今までやってきた他のビジネスを中国人に奪われたから。
・・・市場原理というものを知らないのもどうかとは思いますがね。

そして最後に、他部族。ナミビアも例にもれず多部族国家です。といっても数は10数部族と少ないですが。各部族の特徴から、それぞれ得意とするビジネス分野が出てくるようです。でも職に就いていない人はこう思うのですよ。

「あいつらさえいなければ、〇〇部族である私があの場所にいたはず」と。

いやさ・・・部族の誇りは大事かもしれないけれど、その前にあんた細かい手作業できるほど根気あるの?酒飲みすぎて手、震えてるじゃん。酒飲みすぎて震える手でバリカン持たれても私は行かないよ、そんな店。

その2:偉い人=人に指図するボジション。

ま、実際はそうなのですが。かれらの”人に指図するポジション”に対する執着がすごいです。
こまごまとした雑務、例えば私のカバンを運べ、そこにあるものを取って、ちょっと聞きたいことがあるからこっち来て。話したいことがあるから来い。などな実によく私を使おうとしています。私がその頼まれごとをしている間(そんなことを聞く方も聞く方だけど)その様子をじっと見ているわけ。笑みを浮かべながら。つまり彼らには

  • できれば大きな机と立派な椅子に座って、自分は人に指図したい。
    自分の立ち位置は、人に指図する立場であるべき。(優越感を感じたい)
  • 実務は他の誰かがやるべきであって私ではない。
    (自分たちは今まで被支配層だった。独立したんだから今度は私が支配層)
  • ワーカー、作業者、実務者に対する侮蔑
    「ああはなりたくない。」「あの仕事についたら人生詰みだよね」

という考えが根底にあるようです。
が、彼らはある事実に気づいていません。”実務能力の欠如”という重大な事実に。
書類をつくるための資料がどこにあるかわからない。資料があってもその活用方法がわからない。そもそもその書類をどうやって作るのか(データのまとめ方)がわからない、のです。

外部から来た日本人の私ですら初見でその書類が何を求めているのかだいたいわかります。(わからない単語がいくつか出てきますから)
彼らが私のつくった書類をみていうことは「この数字の書き方(字体)がおかしい、とか「アルファベットの形がおかしい」ということであって肝心の内容はみていません。それは書類の作り方をわかっていないから。でも何かを指示し指摘したい彼らには上記のことを言うので精一杯、でもダメなところを指摘できたから「俺(私)ってできる人!すげー」といった感じなのです。

その3:仏作って魂入れず

ナミビアのシラバスは教える内容から始まり成績をつけるときの計算方法、まで見事なまでに充実しています。制度自体はかっちりしております。
また、学校の運営に関する政府等が要求する書類の様式自体も
「これだけかっちりしていたら管理できる」代物です。
が!!!!どうもおかしいのです。

それはその制度を運用したり・様式通りの書類整備するための労力(コスト)を度外視しているのです。現場の教員たちはたまったものではありません。
例えば、シラバスの内容を一回/一日実質30分の授業で教えようとするとかなりの無理をしないと教えられない内容・分量がギッチリと詰まっています。そこで現地の教師はどうするかというと

  • まじめな教員:課外授業(でも生徒は授業を受けず学校から逃亡)
  • ふつうの教員:授業中で言及はするもののさらっと触れるだけ
  • 不真面目教員:そもそも内容に触れない。
    「この前やっただろう」と生徒を恫喝してやったことにする。

また、学校もその制度を運用するに当たりどのくらいの労力が必要か、を把握できていません。ナミビアは生徒に無償で教科書を貸与しています。これに伴い学校側は教科書を在庫管理しなければなりません。

在庫管理に必要な様式として教育省は

  • 様式1:借用書(教科書名、教科書の管理番号を記入し、保護者・生徒・教員の3者連名の署名)
  • 様式2:注文書(どの教科の教科書を何冊注文したか)
  • 様式3:検収書(受け取った教科書が注文書に合致しているか)
  • 様式4:管理表1(教科書の管理番号一覧)
  • 様式5:管理表2(生徒毎に教科書の管理番号・状態を記入)
  • 様式6:管理表3(教科書管理番号毎に生徒の名前を記入)

を要求しています。

様式1~3は、実務として必要なもの。様式4~6も実務としては必要かもしれないけれど今の時代、わざわざ手書きで管理する必要性があるのか?というものです。
また、教科書の管理番号も、連番/取得年を教科書に記入した後、取得年月日入りの学校公印を押す仕組みなっています。
私自身、管理の程度を確認してみましたが、様式4~6はされていませんでした。
この管理に割り振られた担当者は一人ですから・・・・。
(学校長期休暇期間に全員総出でやればいいと思うんですがね)

つまり、制度が大切なことは知っているが「どう運用するのか」がわかっていないにも関わらず、制度の運用方法を「自分達は理解している」と思い込んでいる。また担当者は、制度を運用しないといけないことを知っているが実務としての作業は「私ではない誰か」がやるべきだと思っている。
[ここら辺の詳細・この次第は、以前のブログ記事を参照いただければ・・・。]

その4:ノーベル賞独占国家は存在するか??

ただ、アフリカ独自の背景も考慮に入れる必要があります。それは多部族国家であるという点です。ナミビアは英語が公用語(公の場では英語を話さなければならない)のですが、日常生活レベルでは異なります。
ナミビアの場合、英語・アフリカーンス・オチドンガ・コェコェゴワップ・ヘレロ・・・と多言語ありその内3つくらいは理解しないといけないような雰囲気です。(英語・自部族語・他部族語)

さて、ここで比較してみましょう。

ナミビアは、学校によって差はありますが小学校低学年まではその部族言語。
(英語の場合もあります)
小学校高学年くらいになるといきなり英語。中学校からは英語のみで授業です。
生徒たちはの理解度は推して知るべき、です。

日本は、日本語が話せれば義務教育~高等学校までは困らないし、日常生活・普段会社勤めでもなんとか事足ります。

日本で

「来年から義務教育以上の教育は全部英語で行うこと。」

学校対応できますか?社会が対応できますか?
日本人は最低6年は英語を勉強しているはずだからできるはず!!!!

・・・無理でしょ?

教える教員が物事を教授できるだけの英語力がない。生徒側も英語できない。
日本だから英語をたとえ話にしましたが、これに似た状況がナミビアでも見られるのです。
(政府から「あなたは英語で授業をしてますか?」なんてアンケートがありました。英語で教えていない教師が多数いるんでしょうね)

以上、ナミビア人の気質(教育)・仕事に対する間違った認識・言語環境の3点を上げてみました。

じゃあ、具体的にどうすれば?ということに対しては答えは出ていません。
ただ、ある学者が言いました。

「政治とは堅い板に錐で穴をあける作業」という旨の言葉を。

わたしは、「開発・教育とは水が石を穿つように進める作業」であると考えています。
さらに、国際援助は、援助国・被援助国の政治ありきで進められているものなので、”堅い板に錐で穴をあける作業”をした後に水で石を穿つようなことをしないといけない。

道のりは長いと思いますが、あと50年で何かが変えられるといいな。

気が長い?

日本の高度成長~バブル崩壊~今までの間での構造上の欠陥、直ってますか?

この期間、50年ですよ。

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