2010-11-14

「民主的」や「民主主義」という言葉の意味について(1)

NTCにて訓練中です。集団生活をしていると様々な意見の衝突に出くわす。殆どの人にとってこの衝突こそがストレスの原因となっていると思われる。
さて、表題についてとても気になった ~言葉を選ぶ必要はあるけれどあえて言えば「ほんとにあなたは日本人として日本の標準的な教育を受けたの?」と尋ねたくなるくらいの衝撃があった。(それはお前だ!いうツッコミ歓迎)いや、そう深刻に考える必要はないかもしれないけれど少なくとも私にとっては非常に大きな違和感であることは違いない~出来事がありました。
午後に行われる講義の一場面。
グループにわかれて討議・討論・検討中に「ここは多数決で決めましょう。民主主義です」
「民主主義的に、多数決で(決めましょう)」なんて言葉が飛び出した。さも当然のように。
この言葉を聞いたとき思わず絶句し、次に指示されている行動に移る気力がなくなった。『ちょっとまて。あなたにとって「民主主義=多数決」なの?本気でそう思っているのなら悪いことは言わない、海外にでる前にもう一度復習をお願いしたい。』当然、私の表情は「ムッとした」表情になっていたと思われる。
・・・以下述べることは間違っていて復習が必要なのは私かもしれないが・・・・

(議会制)民主主義において、何らかの意思決定を行うときは「多数決」が採用され、制度化されている。なぜならこれが現存する意思決定方法にとって最も「ベター」だからであり、最良の方法ではないことに着目すべきなのである。
民主主義での意思決定は「利害関係者による意見の完全一致」が原理であり、原則であり、理想であり、民主主義的思考に則って行動する人すべての人はこの「利害の完全一致」を目指して議論・討論・検討を行うために最大限の誠意を払い、そして努力するべきであると私は考えている。
あえて多数決という概念を持ち出せば「全員異議なし」の状態にすべく、絶えず議論・討論・検討を尽くそうとする主義、ともいえる。
しかしながら、現代社会において利害関係者は多方面に多数存在し完全一致は極めて困難である。そこで「仕方なく」行われるのが多数決による意思決定となるのである。
いいかえれば、議論・討論・検討を尽くすことなく安易に多数決をとるというのは、民主主義の名を騙った全体主義かつ集団主義に陥っていると判断せざるを得ない。
私(筆者)は、ともすると相反してしまう「自由・民主主義」の立場を取ることを念のため明言しておく。

意思決定の方法である民主主義と全体主義を横軸に・価値判断の基準である集団主義と自由主義を縦軸に置きまとめてみたのが上図(政治システム概略)である。
全体主義と民主主義について(政治制度)
【民主主義】
あらゆる少数意見に耳を傾け、利害の全員一致を図ろうと努力するのが民主主義である。この過程を経た意思決定は必ずしも社会全体が享受できる利益の総量は最大ではなく、また個人の自由意志に基づく行動を規制することもあり得る。
【全体主義】
個人よりも全体にとっての利益を重視し、全体の利益が最大にするためにはある程度(もしくは全部)の個人の利益は無視され、無くなっても仕方がないというのが全体主義である。
極論すると、例えばひとつしかないパンを皆で分けて食べようとするとき、民主主義者はそれぞれの希望を聞きそれぞれが納得するまで議論を重ねわけ合って食べ、おそらく食いはぐれる人はいない。
全体主義者は、ある一定の判断基準を設け、そこから外れる人へのパンの配給は行わないこともありえる。そして外れた人はその決定に従わなければならない。
集団主義と自由主義について(行動様式・文化・慣習)
【集団主義】
ある一定の集団の利益・存続を第一に考える行動様式と定義する。
”One for all All for one”という言葉は有名であるが、この言葉を使って説明するとフレーズ自体はこのまま使われるかもしれないが、ことが起こるとOne for all の部分を強調し、個人が集団に尽くす(ともすれば自己犠牲)の文化・習慣・風潮・雰囲気を持つ行動様式である。
【自由主義】
ある一定の集団の利益は確かに大切であるが、それよりも個々の利益が最大になるよう個人が努力すればそれは集団の利益につながりうると考える行動様式と定義する。
再び”One for all All for one”という言葉を使えば、個人に対して何か困ったことがあればAll for one の部分を強調し組織が個人を助ける文化・習慣・風潮・雰囲気を持つ行動様式である。
この二つの行動様式を具体的に説明するには次の事例が良いと思う。
事例:ある個人が、自らの財産を投じて所属する集団に資する行為を行った。
集団主義の場合、その行動に対し褒め讃えられ尊敬を受けるがそれは一時的なものにすぎない。
なぜなら、個人が集団に資する行動をとることは当然のことであるという考えが根底にあるからである。
自由主義の場合、その行動が集団に与えるインパクトが大きければ大きいほど永久に語り継がえる栄誉・名声を与えられる可能性が大きくなる。これは集団に資する行為は各個人の利益を最大化するという考えから外れるものであり、「普通なら行わない、又は行いたくても個人の利益を減ずることになる行為であるので、行えない」行為なのである。したがってその集団は、行為を行った個人が減じた利益を別の方法で補填しようとする行動をとらざるを得ないことになる。

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