2012-09-05

いじめとコミュニティー

IMGP00001(22)日本の文部科学省ではいじめを次のように定義しています。
”当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。”
手元の電子辞書によると英語で「いじめ」はbullyと訳すようです。
また相手を悩ます度合いは
tease, bother, pester, nag, worry, plague, harassとあります。
日本での議論は、plague/harassの意味合いの「いじめ」でしょう。harassはセクシャルハラスメントとかパワーハラスメントで知られている単語です。
『どこの社会でもいじめはあるんだよ』なんていう人もいますが、この場合はteaseだったりbotherを意味しているのだと信じたい。まあ、甘い考えですが。
政治家がずいぶん昔に私人だったころの過去を暴きだし、書き立て騒ぎ立てるのも一種のいじめですし。
大人の社会、会社でもいじめはあります。
「こいつ気に入らないからあることないこと吹聴してやろう」
から始まって
「この契約社員、ナマイキだから契約更新しないでおこう」
まで。
大人の場合は、まだ逃げ道がある。
昨今の状況では難しいですが所属する組織を変えればいいのですから。
なんだこのやろう、とポカリと殴っちゃったら大変です。傷害罪で捕まっちゃいますから。
子供の場合は、逃げ道がほとんどない。
「子供がいじめられているから転職して別の地方へ行こう」なんてケースは稀だと思います。
それよりも踏みとどまって子供のために何とか解決の糸口を見つけようとする保護者の方が大半ではないのでしょうか。それだけに、地域のつながりを・・・と言いたいところですが”向こう三軒両隣”の住人すら知ることのできず、道行く子供に挨拶しただけで警察に通報されるような世の中ではこれまた難しいでしょうねぇ。
さて、初の海外経験であるナミビアで滞在20か月を経過しました。
配属先の中高学校に限っての経験ですが紹介します。
ナミビアで、いじめはあるかどうかと問われれば、「あります」と言わざるを得ません。
ただし、どんなに悪質でもtease/botherどまりです。
ナミビアのいじめはtease/botherでありそれ以上発展することはありませんしありえないと感じています。何故か?
例えば、授業時間に、女子生徒Aが「ペンをこいつ(男子生徒A)がとった」と騒ぎ、泣き出したとしましょう。すると周りの生徒が囃し立て、盗ったとされる男子生徒Aのカバンを取り出して漁りだすこともあります。漁りだした生徒BCDが、どさくさに紛れてその男子生徒Aの持ち物を盗る。男子生徒Aが反抗し盗ったものを女子生徒に返して(お前かぁ!!)、盗られたものを取り戻そうとする。それを見た友達の生徒EFGが生徒BCDに向かっていく。無関係だった生徒HIJが向かっていった生徒EFGを制止しようとする。それを見て興奮した生徒KLMNが喧嘩を始める、最初に騒いだ女子生徒Aは友達の女子生徒XYZとおしゃべりをしだし、ついには歌を歌いだす、切り替え早っ!!・・・といった感じです。(この間2分)
ええ、授業時間なのでこの時点で教室崩壊です。毎度のことながら授業計画通り進みません。
どうリカバリーしようか悩まされます。真の意味でいじめられているのはたぶん私。
学校の生徒は、大きく分けて4つの部族(母語が異なる集団)に分かれます。
日本のようないじめが発生しえない土壌です。何故かバランスが取れているのです
たとえば、母語の同じグループ内で仲間外れになったりすると、別のグループと仲良しになります。一人が抜けるとそれだけ人数的勢力(?)が衰えるのが嫌なのか、いつの間にか元に戻ります。
体の小さい生徒が大きい生徒に意地悪をされたりすると、それぞれ母語が異なる体の小さい生徒が団結しだします。
男子生徒が女子生徒に意地悪をすると、その場で殴り合いのけんかになるか、その場の女子生徒全員から手痛いしっぺ返しがきます。
女子生徒が男子生徒に意地悪すると、「あの子はあの男子に気がある」とうわさになり、もう青春です。
生徒はその場その場で、立ち場所をいい意味で替えバランスを取っているのです。
生徒の属する集団がいくつかあり、異質性を嫌でも認識させられ、それを認めない限りコミュニティーに入れないのです。「自分と異なるもの」を認めないと、自分自身も認めてもらえないという意味です。先の例でも、その属性がなんらかの関連性をもっていると推測されます。
翻って、日本はどうか? 
ほんの少しの異質性(しかもそれは本人の意思ではどうにもならないもの)を探しだし、それをネタにいじめを開始する。いじめる側の人間は、いじめることでなんだか優位性を持てたような気がする。周りの人間もなぜかその優位性を認め、その優位性にあやかろうとする。
その結果が「見て見ぬふり」なのではないでしょうか。
子供の世界は社会の縮図であり、大人社会の鏡です。
いじめは子供特有の問題ではなく、社会(コミュニティー)全体の病巣を映し出しているのだと思います。前述のとおり、自宅近くの道ですれ違う人に挨拶すると、怪訝な顔をされたり警察呼ばれたり、そんな社会は歪なのだと、こちらに来て確信に近いものを得た気がします。
コミュニティーの歪さ、これが日本での「いじめ」の根っこにあるものの一つではないでしょうか。そんな気がしてならないのです。
注)写真と本文の内容とは関係ありません。丘の上からみたウサコスの町並みです。丘の上に上っているときにつらつらといじめについて考えていた、ただそれだけです。

0 件のコメント: